- 小説の戦闘シーンを描く上でのビッグイシューがひとつ、“速さ”について知りたい
- 読み手として、より小説の戦闘シーンが楽しめる見方を知りたい

「イシュー」とかいう知りたてホヤホヤの横文字を忘れないうちに使いたがるこの浅はかさを許してクレマチス
小説の戦闘シーンにおいて、“速さ”をどう表現するか
昔はやったけどね。「棒がとんできた」「棒が見えてきた」「棒が襲ってきた」いろいろ書くわけ。どれもダメなの。どれもダメだと思うときに、「棒。」っていう。それだけのことをやったことはある。
『ミステリーの書き方』日本推理作家協会編著/P.200
どうもこんにちは、キノタダシ(@GtH4uTlfJ5mFvlL)です。
北方謙三先生が『ミステリーの書き方』(日本推理作家協会編著/幻冬舎)の中でこのようにおっしゃっているわけですが──この発言自体は「体言止めは使ってもいいですか」という問いに対する答えから一部を引用したものなので。
北方先生の述べるところのキモではありません(ちな肝心の答えは、「やるべきじゃない」だったりする。理由は「安直すぎる」から)。
件の見解を目にした当時、“速さ”を求めるとやはり行き着くところはそこだよなーと、畏れ多くも全てを捨てて同意するわかるマンと化したことを憶えている。
“速さ”を追求する戦闘シーンを描く上で、安直な比喩表現不要論
たとえば、相手の握り拳をまじまじと観る機会があったとして、

まるで巌のような拳だなぁ
と感想を漏らす分には違和感ないと思うのですよ。
観て、抱く余裕があるわけですから。
一方、瞬きすら許されない闘いの最中、互いの実力は拮抗しているものとして、眼前に迫る拳をはたして「巌のような拳」と描写していいのか──みたいな疑念が、ふとした折私の中に起こりまして。
ちょうど『ERAZER Reboot』を執筆しているくらいの時期だったんですけど。
『ERAZER Reboot』
一人称・三人称を問わず、「巌のような」という添えものが拳を失速させていないか、迫る敵意を前にその形容はあまりに悠長ではないか、いっそ「拳。」か「巌。」でよくね? みたいな。
“速さ”を追求する戦闘シーンを描く上で、安直な比喩表現不要論が私の中で確立されつつある時期だったので。
それゆえの「棒。」に至ったプロセス、同意する他ないなぁと。
あと、これ見よがしにリンクを張っておいてなんですが、『ERAZER Reboot』の戦闘シーンは云うほど“速さ”に力点をさいていません。
当時は殺陣や技斗にドハマりしていたので、どちらかと云えばアクション映画や特撮を意識した立ち回りそのものに力を注いでいます。
よって、決着的な意味合いでは故意に“失速”を図っているというか、戦闘シーンをエンタメとして長引かせているきらいさえあります(もっとも長引く背景には、戦闘を繰り広げる主人公の信条も加味しているのだけれど)。
「神速」という表現、使った時点でもう「神速」ではない説
タイトルで述べた「神速」にも似たような見方を持っていて、他の書き手が使う分には何とも思わないのだけれど、自分が使うには抵抗があるのですよ。
「音速」や「光速」だとただの説明になってしまうから、「神速」を用いることで何だか“速さ”を表現した気になっている──そういう甘えが透けて見える気がしたので。
だから、自分が使うのは厭だった。
『黒ノ都』 19『Result』
上記リンク先で、敵の一撃を「炸裂。」とだけ描写したのはその辺のこだわりのせいだったりします。
視点人物からしたら飛んでくる物体が拳かどうかさえ視認できなかったと思うので。
となると視覚的に表現するのは何だか間が抜けている。じゃあ「炸裂。」かなぁと。
そういえば「神速」で思い出したのですが、『斬魔大聖デモンベイン』の中でさも

え? 皆知ってるでしょ?
くらいのノリでしれっと出てくる、神速を上回る速度──「魔速」っていう造語メッチャ好きなのですよね。一回しか出てこないんですけど。
どれくらい好きかっていうと、私が最初に云い出したことになんねーかなとセルフ手枕しながら思うくらいには好きです。
だから「小説の戦闘シーンに比喩はNG!」という話でもない
と、ここまで書いた時点では戦闘シーンの安易な比喩表現ブッ込み絶許マンのレッテルを貼られかねないのだけれど、やはり「他の書き手が使う分には何とも思わない」のである。
さらに云えば「互いの実力は拮抗している」という前提を強調したように、たとえば攻撃の受け手となる視点人物が「まるで〇〇のようだ」と悠長に構えていたり、相手の武装について長々と薀蓄を垂れていたりしたら、それはもう受ける側に余裕があることの表れであって。
そういう力量差を説明ではなく描写を通して表すことができたら、まさしく物書きの玄人であることよなーなどと勝手に思っていたりする。
それゆえ、この書き方がタブーというよりは、結局「適材適所」という臨機応変並みに汎用性のある四字熟語に落ち着く次第。
北方先生は体言止めを「やるべきじゃない」と云い切ったけれど、私としては「安直だから通るな」というのも何だか一辺倒な気がするので、今後も体言止めは使うでしょうし、そんなに数こなさないうちから

体言止めって安直なんだー
という先駆者の結論のみ掠めとってしまうのは些かもったいないと思っているので。
私にとっての神速然り、各々が自分にとっての「コレジャナイ感」を見つけていただければ良いのではないかなぁと。
ちなみに自分の中の表現における「コレジャナイ感」がわかってくると小説が巧くなる──かどうかはちっともわかりませんが、そこそこ楽しくはなります。
思うに、こういう感覚こそが書き手としての長期的なモチベに結びつくのではないかと考えるのですが、いかがか。
今回はそんな感じ。ではまた。