- 自作にもらった批評・講評を読んでブチ切れた憶えがある
- なんなら今ブチ切れてますが何か?
- 自主企画で講評書いたらブチ切れられたんだけど、コレって私が悪いの?
どうもこんにちは、キノタダシ(@GtH4uTlfJ5mFvlL)です。
小説投稿サイト「カクヨム」において「あなたの作品に批評・講評を書きます!」みたいな自主企画ありますよね。

最たる例としてカクヨム自主企画を挙げていますが、「#RTした人の小説を読みにいく」などでもよく目にする企画内容ですよね
これ自体は創作者同士切磋琢磨し合う素晴らしい試みだと思うのですが、いかがでしょう?
批評・講評を書いた側にしろ、書かれた側にしろ、ムダに痛い目を見た憶えはないでしょうか?
結論から云うと、まずブチ切れているあなたはそれがあなたの選んだ道なので甘んじて受け入れましょう。
ブチ切れられたあなたはもしかするとあなたの批評・講評に神経を逆なでする的な意味で落ち度があったのやもしれませんが、正直そこまで重く受け止める必要はないです。

ちなみに、批評と講評の違いってなんなの?
批評 | 事物に対する判断を述べるにとどまる |
講評 | 事物の出来栄えを理由を挙げながら批評する |
くらいの感じです。
小説にもらった批評・講評でブチ切れているあなたへ

必ずと云っていいほど、自ら批評・講評企画に参加しておきながらもらった講評に対してキレ散らかす人いるじゃないですか(笑)
ね、講評企画に参加した時点で100%肯定的な意見がくるわけないじゃないですか。
いや、逆に100%くるだろうと思って参加されたなら、それはそれでその図太さに舌を大車輪させる(舌を巻くの最上級。固唾を呑むに対する固唾がぶ吞みみたいなモン)ばかりなのですが。
小説家になったら”講評”から逃れることはできない
私、過去に某出版社さんから3度講評を頂戴したことがありまして。
「どこどこを直したら?」というよりは「こういうエピソードを追加したらもっとリアリティが増すんじゃない? 読み応えが増すんじゃない?」みたいなアドバイスが中心──というかそういうのしかなかったのだけれど。
今回、講評の中身は割愛するとして──。
その頂いた講評に目を通したとき、似てるなーと。
何に似ているかと云いますと私、主にクラウドワークスでwebライターとして活動しておる身なのですが、当然クライアント側から修正を依頼されることってあるわけですよ。
- 「もっとフランクな感じでお願いします」
- 「一段落目にはこういう情報を書いて、二段落目にはこういう情報をお願いします」
とかですね。
つまり、何が云いたいかというと講評に対してキレ散らかしがちな人、作家という職業を神格化し過ぎてはいないかと思うところがありまして。
文章で稼ごうという枠内にいる以上、どんな立場に身を置いても「これこれこうしてくださいね」とか「もっとこここうしたらどうですか?」とかから完全に逃れることって不可能だと思うのですよ。
小説に批評・講評を書いたらブチ切れられたあなたへ


「講評でディスられた程度でキレるな」と云いたいことはわかった。
しかし、ブチ切れられた側の結論が「そこまで重く受け止める必要はない」なのはどういうことなの?
自主企画を通じて講評を書く目的は人によってさまざまでしょうが──。
自己成長のほか
- 「これを機に自分と自作に興味を持ったもらえたら」
- 「より関係を深めることができたら」
と考える方も少なからずいるのではないかと思います。
良好な人間関係を築く上で参考となる比率がございまして、これをロサダ比と云います。
友人であれ、家族であれ、恋人であれ。
人間付き合っていると、相手に対してポジティブなことばかりを云っていられません。
ネガティブなことだって云わざるを得ないシーンはあります。
じゃあ、良い関係を維持する上でどれくらいの比率を保ちながら、ポジティブなこととネガティブなことを伝えていったらいいの? という疑問に一つの目安を示してくれるのが、このロサダ比なのです。
【対人関係の黄金比】ロサダ比(ロサダの法則)
良い友人関係を保ちたい場合、ネガティブ:1に対してポジティブ:3の比率が重要であると云われております。
つまり、相手のネガティブな部分をひとつ指摘する際は、3つ相手のポジティブな部分を評価する発言をしないと関係悪化するリスクが高まりますよーということですね。
ちなみにこれが恋人や夫婦関係且つ相手が女性の場合は、1:5が適切であると云われております。
奥さんや彼女には、ネガティブなこと1つにつき、ポジティブなことを5つ云いましょうということです。
ロサダ比に関してはメンタリストDaiGoさんがこちらの動画で触れておりますので、ご興味のある方はどうぞ。

ん?
要するに講評するときもこのロサダ比を意識して「やさしい講評」を書けと?
と思うじゃん?
ところがどっこい私が云いたいのはそういうことじゃあないのですよ。
好かれようと思って批評・講評を書く必要はない!

結論から申し上げますと、好かれようという目的で批評・講評の中身を忖度する必要は一切ございません。
では、なぜにロサダ比を紹介したのか──。
理由を述べますと、とどのつまりネガティブ1個を投げかけたくらいでブチ切れてくる相手とは良好な関係作りようがないからです。
さらに云えば、ポジティブ3つとネガティブ1つをセットにしてブチ切れるような相手なら、もはや気に留める必要はないかと。
ロサダ比は面倒な相手の選別ツールとしても役立つわけです。
自分の批評・講評に何か落ち度があったのかも──と反省する分には良いのだけれど、過度に落ち込む必要はないと結論付けたのはすなわちこういうことです。
相手に気に入ってもらえたかどうかを反省の基準とする必要はありません。

ところで、ロサダ比って数学的な裏付けが完全否定されてるけどそこらへんどうなの?

比率としては科学的根拠ないらしいのですが、相手を肯定するばかりでなく、ときに間違いを指摘することで良好な人間関係を保てること自体は確かじゃないかなぁと(事実、この比率を順守していれば100%良好な人間関係維持できる!とか思ってる人、多分いないでしょうて)
批評・講評企画は”疑似体験”として最適だ!

以上の点から、講評企画は疑似体験としてすごく有益だなーと考えております。
仮にこれを読んでいるあなたがプロの小説家になったとして──。
すると、今度は講評企画なるものに参加していないにもかかわらず、講評がやってくるわけです。
SNSやYoutubeで読んだ人からはさておきなぜか読んでない人からもあれこれ云われるのですよ。
まあ、これに関しては云われる方が遥かにマシなのですが。
でなければプロデビューした意味がないでしょうし。
このあたりの”なぜか読んでない人からのあれこれ”を巧いこと味方につけたのがなろう系だよなーと個人的には思うております。
ちなみに、当ブログおすすめする作品の方向性から一見するとアンチなろうっぽいですが、小説を読むメリット上紹介しづらいから排除しているだけで、なろう系が誕生しなければライトノベル業界とっくに崩壊してるでしょと思うくらいには評価しております。

その辺に関しては、ノベルゼロさんが身をもって証明してくれましたね──
兎角、批評・講評企画は、もし自分がプロデビューしたとき体験するであろう”状況”の一端を疑似体験させてくれる──という意味でとても貴重です。
それゆえ、ぶっちゃけ講評の内容がお気に召さなければキレ散らかしても構わないのだけれど。
キレた先に戦略がないのであればキレない方がいいです。
講評の中にあなたの予期せぬネガティブワードがあったとして、それを見てイラッとしたり、凹んだりしたのであれば、そこですかさず一歩引いて

あー、こういう感覚をおぼえるのねー
というのを味わいましょう。
偶に「素人からの講評に一体何の意味があるの?」みたく斜に構える人を見かけますが、(講評企画主催者の中に実はこういう苦悩を抱えている人がいるかもわからんけど)、そういう人にこそ伝わってほしい。
批評・講評企画とはこういうためにあるのですよ。
今回はそんな感じ。ではまた~。